waltzingmathildaのブログ

自分のための思考のゴミ箱。社不はこんなこと考えながら生きてます。最近は好きなモノについて感じたこと書くスペースになってます。

Tell me why? Mr.J.D.Salinger.

 

俺はけっこう本を読む。

こう言うと、ビックリされることが多い。

 

 

あなたはお気に入りの本があるだろうか。

 

俺はこの質問が好きだ。

その本がどんな本かで、その人がどういう人なのか想像できたりするのである。

自分が知らない本ならば、読んでみて、「この人はこういうのが好きなんだ」とその人をわかったような気になれる。

(無論、それだけではわからないが少なくともその本の話からその人のことを知れるキッカケにはなるかも知れない)

 

それを聞くのも先ずは自分が言ってから、というのが礼儀作法というもの。

というわけで、今回は俺のお気に入りの本の一つについて話したい。

 

 

"ライ麦畑でつかまえて"

 

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原題は「The Catcher in the Rye」。

直訳すると「ライ麦畑で捕まえる人」になる。

 

そもそもこの本にはいくつもの邦訳が存在していて、

 

ライ麦畑でつかまえて」            野崎孝

ライ麦畑の捕手」                       繁尾久 訳

「危険な年齢」                              橋本福夫 訳

「キャッチャー・イン・ザ・ライ」    村上春樹

 

等がある。
村上春樹の文章は冷淡である、と言われるがこの訳し方を見ると「もしかして英訳前提の書き方なんじゃ…」と勘ぐってしまう。

 

いきなりネタバレをする。

というかザックリ端折って結末だけ話す。

主人公ホールデン・コールフィールドは学校を辞め、様々な「大人社会」の不条理を目の当たりにしそれに反抗心を抱く。

最終的に、自分がなりたいのはライ麦畑で遊んでいる子供たちが遊んでいる時に崖から落ちそうになったら捕まえてあげる、ライ麦畑のキャッチャーのようなものだと言う。

 

「とにかくね、僕にはね、広いライ麦の畑やなんかがあってさ、そこで小さな子供たちが、みんなでなんかのゲームをしているとこが目に見えるんだよ。何千っていう子供たちがいるんだ。そしてあたりには誰もいない――誰もって大人はだよ――僕のほかにはね。で、僕はあぶない崖のふちに立ってるんだ。僕のやる仕事はね、誰でも崖から転がり落ちそうになったら、その子をつかまえることなんだ――つまり、子供たちは走ってるときにどこを通ってるかなんて見やしないだろう。そんなときに僕は、どっかから、さっととび出して行って、その子をつかまえてやらなきゃならないんだ。一日じゅう、それだけをやればいいんだな。ライ麦畑のつかまえ役、そういったものに僕はなりたいんだよ。馬鹿げてることは知ってるよ。でも、ほんとになりたいものといったら、それしかないね。馬鹿げてることは知ってるけどさ」

 

このセリフから察するに、ホールデンは自分が崖から落ちてしまいそうだった時、誰かに捕まえて欲しかったんじゃないか。今でもそう思う。

"ライ麦畑でつかまえて"

原題の「The Catcher in the Rye」からすれば誤訳である。しかし、あえてこういう翻訳をしたのは、そんなホールデンの思いを汲み取ったからではないだろうか。

 

 

俺達は似ていた

 

この本を最初に読んだとき、ちょうどホールデンと同じくらいの年齢だったし、俺も同じく学校を辞めていた。

だから共鳴したのかもしれない。

 

物語の中でホールデンは、大人の欺瞞や建前といった「大人社会」に対して反抗心を抱いている。

当時の俺はこのホールデンに対して強く共感していた。というか同じような状況、状態だったのかもしれない。

付き合いがあった売春している子たちや、自分と同じ様な立場、またはそれより弱い者と思う者に対してホールデンライ麦畑の捕まえ役になりたいというのに近い感情も持っていたと思う。少なくとも手が届く範囲では。

ある種のメサイアコンプレックスである。今ではこれが歪んだ自己肯定のし方だとわかるが当時は本気で悪くない生き方なんじゃないかと思っていた。そういったところが同じ属性、同じ様な弱さを持つ者を引き寄せていたのかもしれない。そして大抵の場合負の循環を生み、堕ちていく。

 

 

「大人に対する純粋()な子供の反抗を書いた本」

 

というのが当時の印象だった。

 

 

 

成人して変わること

 

こんな書き方をしておいてアレだが、俺は自分のことを今でも大人だと思ってはいない。

成人することと大人になることは違う。

そう思っている。

なんというか、ホールデン的である。

 

 

みなさんは、子供ときに歩いた道を大きくなってから歩くと周りのものがなんとなく小さく感じるなと思ったことはないだろうか。

あるいは大人になってからディズニーに行くと、あんなに楽しかったアトラクションが急にチープに感じたり。

 

そんなことを感じた俺は20歳になっていた。

高校を中退し、「大人社会」に一揉みされ、Twitter質問箱でボコられなんとなく浮いた大学生活を送り人生の軌道修正をしていた(と思っていた)頃。

 

風景にそんな感情を抱くのなら、もう少し若かった時に好きだったものや嫌いだったものを前にしたら何かしら心境の変化があるのかも。

そう思い立ち、「ライ麦畑でつかまえて」を再度読んでみることにした。

 

 

――読み終わってモヤモヤ。というかイライラに近い。

 

「ひねくれたクソガキが我がまま言ってる本」

「大人に対する純粋な子供の反抗()を書いた本」

 

そんな印象に変わってしまった。

 

あんなに共感していたのに!

まさか俺があの「大人」とか言うやつになってしまったのだろうか。

19歳最後の日に自殺してやる!とか言っていた俺が。

 

 

「大人のこんなところが嫌いだ。大人になんてなりたくない」

「大人になるくらいなら子供をずっと見守るライ麦畑のキャッチャーになりたい」

 

「大人になるぐらいなら成人する前日に死んでやる!」

 

「大人の汚い部分が嫌い」と言いながら、しかし女遊びするし、親などとはきちんと向き合わずに逃げ回っていた。(経験談だが、本人がどう思っているかはさておき親や周りから見ればそれが真実である)

 

やはり俺達はどこか似ていたのだな。

しかし、成人した俺はホールデン(や当時の自分)に肯定的な感情は持てなかった。

 

一体こいつ(ら)は何がしたかったんだ?

読み返してみたらよくわからなくなった。

 

 

 

いま思うこと

 

1980年12月8日、ジョン・レノンが殺害された。

犯人のマーク・チャップマンは犯行後、警察が到着するまで「ライ麦畑でつかまえて」を読んでおり、法廷でも作中の一節を読み上げたとされている。

81年にはロナルド・レーガン大統領暗殺未遂事件の犯人ジョン・ヒンクリーに加え、89年に女優のレベッカ・シェイファーを射殺したロバート・バルドも「ライ麦畑でつかまえて」を愛読していたようだ。

 

 

この物語は最初、「大人社会に反抗する青年の物語」だと思っていた。

いま持つ印象はだいぶ違う。

 

「自分という存在をどうするのか」

 

といったある種の自己探求の話なのではないだろうか。

 

 

といっても通常の自己探求の物語とは違う。何故ならホールデンは物語の中で何も成長していない。いわば現実逃避ガチ勢なのである。

 

登場人物にアントリーニ先生という先生がいて、当初は「自殺した生徒を服が汚れるのも構わず抱き上げた、大人の中でも純粋さを持った人」とホールデンは思っていたが、それに疑問を持つような出来事に遭遇した際、彼は「よくわからない」で済ませている。

 

自分が必要とする以外のその人自身を見ないし必要ともしない。

自分が思うその人像を否定するような現実のその人がいる場合、自分の中のその人を修正するのではなく、現実のその人のほうを否定する。

矛盾がある場合、どちらかの認識を改変して物事を考える。「1984年」のダブルシンクや犯罪中止に似ているような気もする。

 

 

自分の内側の世界と現実がぶつかった時、現実を認めなければいい。

ホールデンはそのやり方をマスターしている。

これに影響され、自分の理想とは違う現実に直面した時、現実を修正すればいいんだ。となり、上に書いたように相手を殺そうという発想になっても不思議ではない。

 

 

終盤、自身の妹に「世の中のことすべてが気に入らない」人間なのだと言われている。

 

俺は思う。

ホールデンは「世の中のすべてが気に入らない」のではなく、「自分の生き方が気に入らない」。それに本当は気づいているが、自分の内に閉じこもり気づかないようにしているのではないかと。

 

 

あぁ、そうだったな。

初めてこの本を読んだ時、高校を辞めたばかりだったし、いろいろ問題を起こしては精神的にも荒れていた。

それは自分の問題なのだが、当時は周りのせいにしていたことも多かった。

少し早く社会経験()をしたせいか、周りの同年代より現実を知った気になっていた。1番現実を知っている気でいたが、1番現実から目を背けていたのだ。要は調子に乗っていた。

 

時間が経ち、冷静に過去を振り返ることが出来るようになった。

成人し、高校を辞めたばかりの頃を振り返ったとき、ホールデンや過去の若い自分に対していい印象を抱かなかった。が、それが何故なのかはよくわからないで済ませた。

確かに中卒なりには少しは成長したのだろう。しかし、その時点で自分を騙していたのだとすると根本的なマインドはあまり変わっていなかったのかも知れない。

 

 

この歳になってようやく現実と少し向き合えるようになった。それは本来の意味で自分と向き合うということに近い。

同年代、同級生たちも社会人になっているか就活も終わる頃。それぞれの無視できない現実と日々戦っているのだろう。

 

「自分という存在をどうしたいか」

 

あるいは、どう成りたいか。どう在りたいか。

そんなことを考えるとき「ライ麦畑でつかまえて」を開く。

理想ばかりではなく、現実や自分自身から目を背けていないか。

それをもう一度自分に問うために。

 

ライ麦畑でつかまえて」は歳をとり読むたびに印象が変わる。感想を比べることで、過去の自分を振り返り、今の自分を見つめ直すことができる。

 

そんなところがお気に入りの本である理由だ。

 

 

俺にとってかつて共感した物語は、いまでは反面教師的な実用書になった。

俺は少しは大人になれたのだろうか。