Tell me why? Mr.J.D.Salinger.
俺はけっこう本を読む。
こう言うと、ビックリされることが多い。
あなたはお気に入りの本があるだろうか。
俺はこの質問が好きだ。
その本がどんな本かで、その人がどういう人なのか想像できたりするのである。
自分が知らない本ならば、読んでみて、「この人はこういうのが好きなんだ」とその人をわかったような気になれる。
(無論、それだけではわからないが少なくともその本の話からその人のことを知れるキッカケにはなるかも知れない)
それを聞くのも先ずは自分が言ってから、というのが礼儀作法というもの。
というわけで、今回は俺のお気に入りの本の一つについて話したい。
原題は「The Catcher in the Rye」。
直訳すると「ライ麦畑で捕まえる人」になる。
そもそもこの本にはいくつもの邦訳が存在していて、
「ライ麦畑でつかまえて」 野崎孝 訳
「ライ麦畑の捕手」 繁尾久 訳
「危険な年齢」 橋本福夫 訳
「キャッチャー・イン・ザ・ライ」 村上春樹 訳
等がある。
村上春樹の文章は冷淡である、と言われるがこの訳し方を見ると「もしかして英訳前提の書き方なんじゃ…」と勘ぐってしまう。
いきなりネタバレをする。
というかザックリ端折って結末だけ話す。
主人公ホールデン・コールフィールドは学校を辞め、様々な「大人社会」の不条理を目の当たりにしそれに反抗心を抱く。
最終的に、自分がなりたいのはライ麦畑で遊んでいる子供たちが遊んでいる時に崖から落ちそうになったら捕まえてあげる、ライ麦畑のキャッチャーのようなものだと言う。
「とにかくね、僕にはね、広いライ麦の畑やなんかがあってさ、そこで小さな子供たちが、みんなでなんかのゲームをしているとこが目に見えるんだよ。何千っていう子供たちがいるんだ。そしてあたりには誰もいない――誰もって大人はだよ――僕のほかにはね。で、僕はあぶない崖のふちに立ってるんだ。僕のやる仕事はね、誰でも崖から転がり落ちそうになったら、その子をつかまえることなんだ――つまり、子供たちは走ってるときにどこを通ってるかなんて見やしないだろう。そんなときに僕は、どっかから、さっととび出して行って、その子をつかまえてやらなきゃならないんだ。一日じゅう、それだけをやればいいんだな。ライ麦畑のつかまえ役、そういったものに僕はなりたいんだよ。馬鹿げてることは知ってるよ。でも、ほんとになりたいものといったら、それしかないね。馬鹿げてることは知ってるけどさ」
このセリフから察するに、ホールデンは自分が崖から落ちてしまいそうだった時、誰かに捕まえて欲しかったんじゃないか。今でもそう思う。
"ライ麦畑でつかまえて"。
原題の「The Catcher in the Rye」からすれば誤訳である。しかし、あえてこういう翻訳をしたのは、そんなホールデンの思いを汲み取ったからではないだろうか。
俺達は似ていた
この本を最初に読んだとき、ちょうどホールデンと同じくらいの年齢だったし、俺も同じく学校を辞めていた。
だから共鳴したのかもしれない。
物語の中でホールデンは、大人の欺瞞や建前といった「大人社会」に対して反抗心を抱いている。
当時の俺はこのホールデンに対して強く共感していた。というか同じような状況、状態だったのかもしれない。
付き合いがあった売春している子たちや、自分と同じ様な立場、またはそれより弱い者と思う者に対してホールデンのライ麦畑の捕まえ役になりたいというのに近い感情も持っていたと思う。少なくとも手が届く範囲では。
ある種のメサイアコンプレックスである。今ではこれが歪んだ自己肯定のし方だとわかるが当時は本気で悪くない生き方なんじゃないかと思っていた。そういったところが同じ属性、同じ様な弱さを持つ者を引き寄せていたのかもしれない。そして大抵の場合負の循環を生み、堕ちていく。
「大人に対する純粋()な子供の反抗を書いた本」
というのが当時の印象だった。
成人して変わること
こんな書き方をしておいてアレだが、俺は自分のことを今でも大人だと思ってはいない。
成人することと大人になることは違う。
そう思っている。
なんというか、ホールデン的である。
みなさんは、子供ときに歩いた道を大きくなってから歩くと周りのものがなんとなく小さく感じるなと思ったことはないだろうか。
あるいは大人になってからディズニーに行くと、あんなに楽しかったアトラクションが急にチープに感じたり。
そんなことを感じた俺は20歳になっていた。
高校を中退し、「大人社会」に一揉みされ、Twitter質問箱でボコられなんとなく浮いた大学生活を送り人生の軌道修正をしていた(と思っていた)頃。
風景にそんな感情を抱くのなら、もう少し若かった時に好きだったものや嫌いだったものを前にしたら何かしら心境の変化があるのかも。
そう思い立ち、「ライ麦畑でつかまえて」を再度読んでみることにした。
――読み終わってモヤモヤ。というかイライラに近い。
「ひねくれたクソガキが我がまま言ってる本」
「大人に対する純粋な子供の反抗()を書いた本」
そんな印象に変わってしまった。
あんなに共感していたのに!
まさか俺があの「大人」とか言うやつになってしまったのだろうか。
19歳最後の日に自殺してやる!とか言っていた俺が。
「大人のこんなところが嫌いだ。大人になんてなりたくない」
「大人になるくらいなら子供をずっと見守るライ麦畑のキャッチャーになりたい」
「大人になるぐらいなら成人する前日に死んでやる!」
「大人の汚い部分が嫌い」と言いながら、しかし女遊びするし、親などとはきちんと向き合わずに逃げ回っていた。(経験談だが、本人がどう思っているかはさておき親や周りから見ればそれが真実である)
やはり俺達はどこか似ていたのだな。
しかし、成人した俺はホールデン(や当時の自分)に肯定的な感情は持てなかった。
一体こいつ(ら)は何がしたかったんだ?
読み返してみたらよくわからなくなった。
いま思うこと
1980年12月8日、ジョン・レノンが殺害された。
犯人のマーク・チャップマンは犯行後、警察が到着するまで「ライ麦畑でつかまえて」を読んでおり、法廷でも作中の一節を読み上げたとされている。
81年にはロナルド・レーガン大統領暗殺未遂事件の犯人ジョン・ヒンクリーに加え、89年に女優のレベッカ・シェイファーを射殺したロバート・バルドも「ライ麦畑でつかまえて」を愛読していたようだ。
この物語は最初、「大人社会に反抗する青年の物語」だと思っていた。
いま持つ印象はだいぶ違う。
「自分という存在をどうするのか」
といったある種の自己探求の話なのではないだろうか。
といっても通常の自己探求の物語とは違う。何故ならホールデンは物語の中で何も成長していない。いわば現実逃避ガチ勢なのである。
登場人物にアントリーニ先生という先生がいて、当初は「自殺した生徒を服が汚れるのも構わず抱き上げた、大人の中でも純粋さを持った人」とホールデンは思っていたが、それに疑問を持つような出来事に遭遇した際、彼は「よくわからない」で済ませている。
自分が必要とする以外のその人自身を見ないし必要ともしない。
自分が思うその人像を否定するような現実のその人がいる場合、自分の中のその人を修正するのではなく、現実のその人のほうを否定する。
矛盾がある場合、どちらかの認識を改変して物事を考える。「1984年」のダブルシンクや犯罪中止に似ているような気もする。
自分の内側の世界と現実がぶつかった時、現実を認めなければいい。
ホールデンはそのやり方をマスターしている。
これに影響され、自分の理想とは違う現実に直面した時、現実を修正すればいいんだ。となり、上に書いたように相手を殺そうという発想になっても不思議ではない。
終盤、自身の妹に「世の中のことすべてが気に入らない」人間なのだと言われている。
俺は思う。
ホールデンは「世の中のすべてが気に入らない」のではなく、「自分の生き方が気に入らない」。それに本当は気づいているが、自分の内に閉じこもり気づかないようにしているのではないかと。
あぁ、そうだったな。
初めてこの本を読んだ時、高校を辞めたばかりだったし、いろいろ問題を起こしては精神的にも荒れていた。
それは自分の問題なのだが、当時は周りのせいにしていたことも多かった。
少し早く社会経験()をしたせいか、周りの同年代より現実を知った気になっていた。1番現実を知っている気でいたが、1番現実から目を背けていたのだ。要は調子に乗っていた。
時間が経ち、冷静に過去を振り返ることが出来るようになった。
成人し、高校を辞めたばかりの頃を振り返ったとき、ホールデンや過去の若い自分に対していい印象を抱かなかった。が、それが何故なのかはよくわからないで済ませた。
確かに中卒なりには少しは成長したのだろう。しかし、その時点で自分を騙していたのだとすると根本的なマインドはあまり変わっていなかったのかも知れない。
この歳になってようやく現実と少し向き合えるようになった。それは本来の意味で自分と向き合うということに近い。
同年代、同級生たちも社会人になっているか就活も終わる頃。それぞれの無視できない現実と日々戦っているのだろう。
「自分という存在をどうしたいか」
あるいは、どう成りたいか。どう在りたいか。
そんなことを考えるとき「ライ麦畑でつかまえて」を開く。
理想ばかりではなく、現実や自分自身から目を背けていないか。
それをもう一度自分に問うために。
「ライ麦畑でつかまえて」は歳をとり読むたびに印象が変わる。感想を比べることで、過去の自分を振り返り、今の自分を見つめ直すことができる。
そんなところがお気に入りの本である理由だ。
俺にとってかつて共感した物語は、いまでは反面教師的な実用書になった。
俺は少しは大人になれたのだろうか。
最近の話
ゆるい話。
最近、俺自身のIT化というかキャッシュレス化が進んでいる。
俺は今年の夏前まで現金至上主義者だった。
クレジットカードなんてもちろん持ってなくてすべて現金で支払っていた。持っていたのは銀行のキャッシュカードと交通系ICくらいである。
理由は特になく、強いて言えば今までずっと現金で支払えていて特に不便はなかったから。ある程度お金に余裕があったからかもしれないが
どこでも使える卍現金最強卍。
電子マネーが1000円分あるよりいま現金1000円持っていることの方が価値が高い。
そんなふうに思っていた。
あとは、自分の社会的地位の低さは16の頃から理解しているつもりなので、「そもそもクレカとか審査通らなくね」と思っていた、というのもある。
金本位制に戻れ!と冗談で言っていたくらいだ。
最近クレカを持ち始め、一般カードは届いた時には限度額30万円だったが今では150万円になり、スマホでQUICPayも嗜んでいる。
使って1ヶ月、ゴールドカードも取得できた。一般カード以上の枠があるが、それよりも中卒社不なのに社会的な信用を少し得られたのかなと思えたのが素直に嬉しかった。
贈り物
少し前の俺はこのクレカというものに関して、毎月給料が変わらない人間が使うのなら、金の前借り、要するにただの借金(あるいはキャッシング)と変わらなくねと思っていた。
買掛の文化から来ているもので時期によって収入が変わる自営業者のためのものだと思っていたのだ。
こんなおカタい考えを持っていた俺がキャッシュレス化に踏切ったキッカケは、誕生日プレゼントに妹からLINE pay 8000円分を貰ったことにある。
バーコード決済なんて最新のモン俺が使えるわけねぇだろ!とオジサン感溢れることを考えた。しかし、せっかく貰ったので彼女に教わりつつ使ってみると、なるほど、すっげぇ楽。
使い終わる頃には自分の考えの古さを思い知らされた。
頭のいい妹はこれがわかっていてLINE payをくれたのかも知れない。良いプレゼントである。
これを使いこなせれば、「小銭が多いとお財布の型が変わるから」と処分ついでに募金するという偽善をしなくていい。
そういうやり方は自分のことが嫌いになる。
思いがけないところで自分が自分でいられるということを発見した瞬間だった。
実家のネット恐怖症
リアルな話、携帯やスマホを両親に買ってもらったことがない。高1の正月(辞める直前)、神社の沿道の屋台の手伝いをしてそのお金で買ったのが最初である。それまでは、中学時代祖父に「音楽プレーヤーが欲しい」と半ば騙して買ってもらったiPod touchとWALKMANで凌いでいた(WiFi環境下でだがLINE等は使える)。
また、ウチの父親は極度に昭和的な考えの持ち主でパソコンやインターネットを使うのもいちいち許可が必要だった。(自分は仕事上使うので、パソコンが出来ないからという訳では無い)
iPod touchを手に入れネットショッピングをしていたことがバレた時にはブチ切れられたこともある。
母も含め家族はおろか、父親宛にもネットショッピングの荷物が届くのは1年に2〜3回というレベルだった。
そうしていたのにも両親なりの考えがあったのだろうというのが今ではわかる。が、当時はスマホを買って貰えなかった事など理不尽極まりないと感じていた。皆が持っているものを1人だけ持っていない、それによってコミュニケーションが1人だけとりづらいというのは、当時の俺にとっては自分だけがネクタイや上履きを持ってないというのに等しかった。幸い、だからハブられるということもなく、短かったが良い高校生活であった。今でも休日に集まる友人ができたのは本当に幸せである。
教育方針の善し悪しは俺にはわからないしどうだっていいことだ。
ただ、だからというか、俺は現代の若者にしてはパソコンやスマホなんかにめっぽう弱い。なんならあまり興味が無い。
それが現代で生きる上で致命的だということに気付くのは皮肉なことに高校を辞めてからだった。クレカでのインターネットショッピングなんかを含めると、もしかしたら気づいたのはついこないだまである。マジかよ…
新しいのは楽しい
スマホは使えればいい。そう思っていた。
LINEなんかで連絡出来ればそれでいい。Instagramなんてアカウントはあるが全然動かしていない。失敗した詐欺アカみたいになっている
いまでも思うが、好きな漫画の主人公の言葉を借りれば、「たかが通信手段の機械に人の絆の強さなんか計られたくない」。そんな気持ちもある。
先日iPhone13シリーズが発売されたのが記憶に新しい。
同棲する彼女は親御さんに13 Proを買ってもらっていた。いままで使っていたXs使わないなら欲しいなと思っていたがどうやら下取りに出すか売りに出すようだ。
この文章を書いている今も、そうやって俺のものになったiPhone7で書いている。
クレカとApple payが使えるというだけで、できることの選択肢がこんなに増えるのかと知ってしまったいま。
…いい加減変えるかなぁ。
相変わらず最新型を持つことに一切興味がないので、13の発売に伴い値下げされた12でもいいかなと思ったが、最近の俺のアップデートの流れを考えるとやはり新しいものがいいのかなどと考えている。
とりあえず新型買ってみよう。iPhoneはぶっちゃけ要らないが、今の俺にはそれが必要な気がするのだ。
少し前にInstagramの別アカを作った。
持ち物は投稿しない、なんとなくビビッときたスナップショットなんかを投稿するアカウント。
彼女が買ったOLYMPUS penの最新機種があるのでそれで散歩がてら撮っている。
クレカ、電子決済、新型iPhone、Instagram、写真、このブログも。
どれも俺には新しいものだ。(レベルが低すぎる!)
新しいことを始めると楽しい。
それが浅はかだとわかっていても。
まずはヘタなりに、社不なりにゆるゆるやってみようと思う。
新陳代謝が止まればやがて死に至り、腐ってしまう。
それは身体だけではなく、思考や価値観にも言えることなのだなと思い知った。
言葉に気をつけたい。バカだけど
タイトルから中卒感が滲み出ている。
みなさんは、自分の語彙が無いあるいは表現方法を知らなかったために伝えたいことを上手く伝えられなかった、という経験はあるだろうか。
俺はもう一つ悩むことがある。
言葉や文章や人の気持ちを解釈する方法は人によって違う。
俺の言葉が相手の耳に入り、頭で咀嚼され意味が理解される時には、俺が元の言葉に込めた意味とはまた違った理解(解釈)をされる可能性がある。
これは俺が中卒だからだろうか。
(あるいは受け取る側が同じ様なのばかりだから?)
頭のいい人は、俺が稚拙な言葉を使いよくわからない表現をしても、なんとなくそこから想像を広げ真意を汲み取ってくれている印象がある。
翻訳について大切にしている話
17歳の時、ある翻訳家さんと話す機会があった。
仕事で一番難しいのが原作の文章の意味を変えずに訳すこと、だそうだ。
どういうことかと言うと、端的にはやはり英語と日本語は違う言語である。ということ。
例えば英語の「fight」を素直に日本語に訳すと「頑張れ」になる。
しかし英語の「fight」は本来、困難に直面した際にその壁を壊す(打ち勝つ)、あるいは乗り越えるという意味であるらしい。(goに近いニュアンス)
対して日本語の「頑張れ」は耐えるという意味合いが強い。
辞書通りに訳しても、その語の成り立ちや元の言語あるいは訳す先の言語が生まれるに至った風土や経緯を加味すると、とてもでは無いが原作者が書いた文章の本来の意味を違う言葉を使う人達に届けるというのは難しい。
訳し方ひとつで意味も作品の印象も変わってしまう。
そんなことを言っていた。
最後に、言葉の怖さを知りたいなら「1984年」って本を読んでみなと言われた。
今はお気に入りの一つである。
全体主義の管理社会を描いたディストピアSF。「言葉を支配するとこは思考を支配すること」みたいな思想の政党が世界を支配している。
設定に、"ニュースピーク"という言語の統一化を目的に作られた(英語を元にした)新語法があるが、実はこれは語彙の量を少なくし、言葉が政治的・思想的な意味を持たないようになっている。この"ニュースピーク"が普及した暁には反政府的な思想を書き表す方法が存在しなくなる。
この本を読み終えた時(中卒なので納得できる理解度に達するまで何周もした)ふと思った。
人はものを考えるとき言葉で考える。
しかし、例えば何かの感情が湧いてきたとしてその感情を言い表す語がなかったらどうするのだろうか。
答えは、自分が知っている語の中で近いものがあればそれで表現する。(=同じにしてしまう)
大切な人が死んで「悲しい」。
人に悪口を言われて「悲しい」。
この悲しみは別物である。が、同じ悲しみとして扱ってしまう(表現してしまう)。
これは非常に恐ろしい事で
ある言語⇔別の言語
の翻訳ならまだいいが
まだ言葉になる前の段階の感情⇔言葉
これを翻訳として捉えると、
言い表す言葉が無い感情は考えることが出来ない。または、(例えば)「悲しみ」ではない感情なのにそれしか言葉がなければ、それは貴方の中では「悲しみ」になってしまう。
語彙が無いというのは思ったより深刻なのかもしれない。
なりたい自分から遠のく
日常的に聞こえてくる会話を聞いてこんなことも考える。
何かをやれ、と言われて
「え〜無理〜」
と言う奴がわりといる。
本来その作業は、「頑張れば出来るレベルだが面倒臭い」くらいのことだろう。
表現としては「面倒い」「嫌」くらいならまぁ妥当である。
しかし無理とは言い換えれば「不可能」ということ。
わかるだろうか。
そんな表現をし続けて、いつかこの表現が一般化した時、
「頑張れば出来る面倒な事」=「不可能なこと」
になってしまわないか。
俺はとても不安である。
理由は、(知らないうちに)自分で自分の可能性を狭める要因だからだ。
普段の思考が言葉に出るのなら、普段使う言葉が思考に影響を及ぼすことだってあるだろう。
普段の何気ない言葉にも自分の未来を閉ざす罠が仕掛けられている感覚である。
気を付けて歩きたい。
見えない何か、もしくはなりたくない自分に惑わされない為にも。
人は、自身が妥協したとき、その妥協した者になるのだ。
矛盾
「1984年」に話を戻す。
"1人の人間が矛盾した2つの信念を同時に持ち、同時に受け入れることができる"
という思考能力のことである。
2+2=5であり、もしくは3にも、同時に4にも5にもなりうる
有名なセリフである。ゲームで見たことがある。
作中では政府が過去を改竄しているため、昔の文章等に矛盾や誤謬があったりする。
しかし現実の記録より党の言うことが正しく、党の主張や記録を信じなければならない。
そのために必要なのがこの"ダブルシンク"なのである。
矛盾や誤謬を見抜かないようにそれを無視する(これを犯罪中止という)。仮に矛盾や誤謬に気づいてしまったとしても、"ダブルシンク"で自分の認識を改変し、「矛盾があったがしかし党の言う方が正しいのでやはり矛盾はない」と認識しなければならない。
と、作中ではこんな(悪い)使い方をされているが、これはこの作品の中だけの話だろうか。
"ダブルシンク"という名前は知らなくても「矛盾した2つの信念を同時に持ち、同時に受け入れている(ように振る舞っている)」人は結構いるのではないだろうか。
ある言葉を思い出す。
「矛盾を抱えて生きるのが大人だ」
この言葉にどれだけの真理が含まれているのかいまの俺にはとんとわからないが、誰かの真理の一つであったことは確実だろう。
"ダブルシンク"。
少し俺なりの解釈(≒翻訳)をしてみよう。
バカとハサミが使いようであるように、翻訳もダブルシンクも要は使いようである。
「矛盾をしたものを受け容れられる力」
こうすれば良い方に作用することもあるのではないか。
例えば、自分は幸せになってはいけない人間だと思っている。だから自分で自分を罰している(と思っている)。
同時に、だが自分で自分を罰するのは赦しを得るためで(誰からの赦しを望んでいるかはここでは問わない)、それは最終的に幸せを望んでいるからではないか?
こんな自己矛盾(と自分では思っている)があるとする。
こんな時"ダブルシンク"が出来れば、そんな自分すべてを否定も肯定もせず、状態(あるいは情報)として認識できるのではないか。
なるほど、自分はこんなこと考えながらこんなことも思ってんだな。そういう自分もいるんだな。という具合に。
状態(情報)がわかるということはいくらか客観視ができるというもの。
その視点からなら、(最終目票は何にせよ)次にやるべきことが見えてくるだろう。
そんな建設的な思考、態度は自分で塞ぎ込んでいるよりいくらか大人と言えるのではなかろうか。
(無論、本当に解決したいと思っていればの話である。こういう手合は大抵現状維持が目的、あるいは手段が目的になっている者が大半である)
矛盾を抱えながらも、考えに考えて、自分だけの自分にとってより善い教訓を得られたら。
それはもしかしたら誰かが賛同する世の真理の一つになるかも知れない。
最後に苦し紛れの言い訳
言葉や思考は人を表す。
言葉ひとつで自分が知らない自分の本心を隠したり見つめたり、
自分の可能性を狭めたり拡げたりする。
自分の内の矛盾や他人との衝突なども思考や言葉ひとつで良くも悪くもなる。
言葉を正しく使うというのはもちろん大切だと思う。
しかしそれ以前に、言葉に気を付けようという姿勢は、言い換えれば自分の人生や他人を大切にしようという生き方なのではないかと思う。
それは俺の中で、言葉が正しいかそうでないかより重要なことなのだ。
放浪して生きるということ
突然ですが、みなさんは
このブログのユーザー名である
"waltzing mathilda"
の意味を知っているだろうか。
実は、2つの楽曲からとった名前である。
今回はその話をしたいと思う。
そもそも俺は、InstagramやTwitterなどの名前を決めるとき、みんなに見える名前はわかりやすくして@〜のユーザー名を凝るタイプである。
何故かといえば短絡的にはカッコいいからであり、マーケティング(?)的に言えばキャラクターに奥深さ(面白さ)を出すためである。
(酒カスな彼女のあるSNSのユーザー名のひとつは「鏡月午後ティー割り」である)
知らない人、関わりが少ない人が自分のユーザー名を見たとき、どういうスタンス、スタイルの人間か想像してもらうことが出来るかもしれない、そんなところである。(もちろん、ユーザー名の元となる語を知らなければそれまでなのだが)
後で関係が深くなった人は俺のユーザー名を見て、「なるほどな」となるのではないだろうか。
"Waltzing Matilda"
1つは、オーストラリア民謡の
「Waltzing Matilda」である。
非公式の国家とも言われている、オーストラリアを代表する曲のひとつである。
ここでのwaltzingとは「あてもなくさまよい歩く」という意味で、matildaは「寝袋あるいはその他の寝具が束になったもの」という意味である。
You'll come a-walzing Matilda with me?
お前も俺と一緒にマチルダワルツ(毛布ひとつで放浪)しないか。
この曲のストーリーは「貧しい放浪者が羊泥棒を働き、追い詰められて最後は沼に飛び込んで自殺する」というもの。
歌詞はなかなか暗い内容だが、メロディーはカントリー調の明るい曲である。
しかしこの放浪者、置かれた状況に対して随分と陽気に歌う。個人的に好きである。
こういった要素が今の俺の心境と非常にリンクし気に入った、というのがユーザー名に採用する理由である。
"waltzing Mathilda"
もう1つは、
Tom Waitsの「Tom Traubert's Blues」。
そのサビ部分である。
初めてこの曲を聴いたとき、ピートを加えた喉の粘膜を蒸留器にかけ作られたアイラモルトウイスキーのような声、悪く言えば負け犬の唸り声みたいだなと思った。
Tom Waitsは「酔いどれの詩人」、「言葉の魔術師」という異名をもつシンガーソングライターである。俳優もやっていたりする。
彼はこの曲を、L.A.の路上生活者と会い、1パイントのライ・ウイスキーを飲み干した後に書いた。
余談だが、Tom Traubert's Bluesの「Tom」とはTom Waitsのことではなく、彼の獄中死した友人Tom Traubertのことである。彼は路上生活者とこの友人の人生を踏まえ、あてもなく放浪する生き方について書いたのだろう。
To go waltzing Mathilda,
waltzing Mathilda,
You'll go waltzing Mathilda with me
楽曲のなかで何度も繰り返し出て来るサビ部分のフレーズである。
元となるのは上に書いたオーストラリア民謡の"Waltzing Matilda"であるが、
よく見るとTom Waitsの"waltzing Mathilda"にはhが入っている。
綴りの違いは英語の種類の違い、もしくは、Mが大文字になっていることからこちらは人物名が由来なのかも知れない。
なにが言いたいかといえば、
俺のユーザー名に使われているのは
"Waltzing Matilda"ではなく
"waltzing Mathilda"、
Tom Waitsの方のものなのだ。
"Waltzing Matilda"は義務教育期間の音楽の教科書にも載っている場合があるので、本来ならわかりやすく有名なこちらを選択するべきである。
が、
こちらを採用する理由は当然
トムラ=ワルチングマチルダ野郎だからである。
トムラのワルチングマチルダにはhが入ると決まっている。
洒落である。様式美は理屈に勝るのだ。
放浪者
2つの楽曲の歌詞の内容は正直どちらでも意味が通るのである。
要するにどちらでも良いのだ。
俺が自分のことを「あてもなく彷徨う放浪者」だと思っている、ということがわかれば。(実際そうであるが)
そして自分が「あてもなく彷徨う放浪者」であると認めた瞬間、ふと気づくのだ。
誰もが人知れず抱えている言いようのない孤独感。その漠然としたものに。
それは言い換えれば、
誰しもが「放浪者的側面」を持つ、と言うことである。
その「放浪者的側面」は時に自分を見失わせ、
自分の人生を自分のものでは無いものにしてしまう。
日常の中で、そういった孤独感や漠然とした不安に押し潰されそうになるときがあるだろう。
そんなとき、「よく考えたらアイツもコイツもみんな放浪者じゃんか」と考えられればいくらか笑えようか。
(無論、自分の問題が解決・解消する訳では無い)
自分が「放浪者」であると知っている俺が、
自分の意思で「waltzingmathilda」をやっている。
それはきっと自分にとって、ある種の願いでもあり、呪いでもある。
今のまま生き、羊を殺した放浪者のように惨めな(ドラマチックな)最後を遂げるか。
あるいは
Tom Waitsの歌声のように、
旅の道連れの布袋のように、
誰もが持つ孤独感にそっと寄り添えるような
そんな存在であれたら。
どちらもよい。
そんな思いでつけたユーザー名である。
誰か俺と一緒に
マチルダワルツする
やつはいないか?
俺はいつでも待っている。
自己紹介と方針
徒然すぎて草
することも無く手持ち無沙汰なのにまかせて、一日中フワフワとした何かと向き合って、心の中に浮かんでは消えていく取り留めないことを、あてもなく書かずとも、俺はいつも異常なほど狂ったような気持ちである。
はじめましての人ははじめまして。
まずは自己紹介。
職業は浮浪者、中退検定準1級、最終学歴は中卒。
趣味は散歩、飲酒、音楽鑑賞、読書…
特技は救急搬送(される)
そこら辺にいる身体的、精神的、社会的弱者です。
なぜブログを始めたのか
自分のため。
・そのとき思ったけど言語化できなかった物事、漠然とした不安や不満、そのフワフワしたものを「書く」ことによって、漠然としたのものに輪郭を与えるため。
またそれらを整理して今後使えるようにしまっておきたい。
・自己の探求(本当の自分探し?)というのは自分の再発見という面が強いと思っている人間なので、言語化して認識し、再発見出来たら。そんなところ。
・生き方が違うからか(みんな違うと思うけど)、俺の考えが珍しいこともあるらしく、人に話してもあまり共感されないことがままある。
だから話して共感されないまでも、「書く」ことによって共有出来たらなと。
共有と言うか、俺が持ってても上手く使えず捨ててしまった道具を、俺にとってはゴミだけど「おっこれイイじゃん」となる人が使ってくれたらいいよねって感じ。
・あと単純に、上にも書いたけどヒマだから。
どういうスタンスでいくか
未定。
2〜3週間に1つ書ければ上出来、月1くらいかなと思ってる。まぁ変わるよ、深く考えたことがあれば書くって感じだから。
ジャンルも絞ろうとかは考えてない。
あとで自分で読み返すためのものだし。
自分でわかればいい。
考えたことを書く場として始めたけれど、あまり深く考えないで始めたのでどうなるかわからない!笑
というのが正直なところ。
ゆるゆるやっていく。