waltzingmathildaのブログ

自分のための思考のゴミ箱。社不はこんなこと考えながら生きてます。最近は好きなモノについて感じたこと書くスペースになってます。

言葉に気をつけたい。バカだけど

 

タイトルから中卒感が滲み出ている。

みなさんは、自分の語彙が無いあるいは表現方法を知らなかったために伝えたいことを上手く伝えられなかった、という経験はあるだろうか。

 

俺はもう一つ悩むことがある。

言葉や文章や人の気持ちを解釈する方法は人によって違う。

俺の言葉が相手の耳に入り、頭で咀嚼され意味が理解される時には、俺が元の言葉に込めた意味とはまた違った理解(解釈)をされる可能性がある。

 

これは俺が中卒だからだろうか。

(あるいは受け取る側が同じ様なのばかりだから?)

頭のいい人は、俺が稚拙な言葉を使いよくわからない表現をしても、なんとなくそこから想像を広げ真意を汲み取ってくれている印象がある。

 

 

 

翻訳について大切にしている話

 

17歳の時、ある翻訳家さんと話す機会があった。

仕事で一番難しいのが原作の文章の意味を変えずに訳すこと、だそうだ。

 

どういうことかと言うと、端的にはやはり英語と日本語は違う言語である。ということ。

 

例えば英語の「fight」を素直に日本語に訳すと「頑張れ」になる。

しかし英語の「fight」は本来、困難に直面した際にその壁を壊す(打ち勝つ)、あるいは乗り越えるという意味であるらしい。(goに近いニュアンス)

対して日本語の「頑張れ」は耐えるという意味合いが強い。

 

辞書通りに訳しても、その語の成り立ちや元の言語あるいは訳す先の言語が生まれるに至った風土や経緯を加味すると、とてもでは無いが原作者が書いた文章の本来の意味を違う言葉を使う人達に届けるというのは難しい。

訳し方ひとつで意味も作品の印象も変わってしまう。

そんなことを言っていた。

 

 

最後に、言葉の怖さを知りたいなら「1984年」って本を読んでみなと言われた。

今はお気に入りの一つである。

 

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1984年」  ジョージ・オーウェル

全体主義の管理社会を描いたディストピアSF。「言葉を支配するとこは思考を支配すること」みたいな思想の政党が世界を支配している。

設定に、"ニュースピーク"という言語の統一化を目的に作られた(英語を元にした)新語法があるが、実はこれは語彙の量を少なくし、言葉が政治的・思想的な意味を持たないようになっている。この"ニュースピーク"が普及した暁には反政府的な思想を書き表す方法が存在しなくなる。

 

 

この本を読み終えた時(中卒なので納得できる理解度に達するまで何周もした)ふと思った。

 

人はものを考えるとき言葉で考える。

しかし、例えば何かの感情が湧いてきたとしてその感情を言い表す語がなかったらどうするのだろうか。

答えは、自分が知っている語の中で近いものがあればそれで表現する。(=同じにしてしまう)

 

大切な人が死んで「悲しい」。

人に悪口を言われて「悲しい」。

この悲しみは別物である。が、同じ悲しみとして扱ってしまう(表現してしまう)。

 

これは非常に恐ろしい事で

ある言語⇔別の言語

の翻訳ならまだいいが

 

まだ言葉になる前の段階の感情⇔言葉

これを翻訳として捉えると、

言い表す言葉が無い感情は考えることが出来ない。または、(例えば)「悲しみ」ではない感情なのにそれしか言葉がなければ、それは貴方の中では「悲しみ」になってしまう

 

語彙が無いというのは思ったより深刻なのかもしれない。

 

 

なりたい自分から遠のく

 

日常的に聞こえてくる会話を聞いてこんなことも考える。

何かをやれ、と言われて

「え〜無理〜」

と言う奴がわりといる。

 

本来その作業は、「頑張れば出来るレベルだが面倒臭い」くらいのことだろう。

表現としては「面倒い」「嫌」くらいならまぁ妥当である。

 

しかし無理とは言い換えれば「不可能」ということ。

 

わかるだろうか。

そんな表現をし続けて、いつかこの表現が一般化した時、

 

「頑張れば出来る面倒な事」=「不可能なこと」

 

になってしまわないか。

俺はとても不安である。

理由は、(知らないうちに)自分で自分の可能性を狭める要因だからだ。

 

普段の思考が言葉に出るのなら、普段使う言葉が思考に影響を及ぼすことだってあるだろう。

 

普段の何気ない言葉にも自分の未来を閉ざす罠が仕掛けられている感覚である。

気を付けて歩きたい。

見えない何か、もしくはなりたくない自分に惑わされない為にも。

 

人は、自身が妥協したとき、その妥協した者になるのだ。

 

 

 

矛盾

 

1984年」に話を戻す。

この本には"ダブルシンク(二重思考)"という設定もある。

"1人の人間が矛盾した2つの信念を同時に持ち、同時に受け入れることができる"

という思考能力のことである。

 

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2+2=5であり、もしくは3にも、同時に4にも5にもなりうる

有名なセリフである。ゲームで見たことがある。

 

作中では政府が過去を改竄しているため、昔の文章等に矛盾や誤謬があったりする。

しかし現実の記録より党の言うことが正しく、党の主張や記録を信じなければならない。

 

そのために必要なのがこの"ダブルシンク"なのである。

 

矛盾や誤謬を見抜かないようにそれを無視する(これを犯罪中止という)。仮に矛盾や誤謬に気づいてしまったとしても、"ダブルシンク"で自分の認識を改変し、「矛盾があったがしかし党の言う方が正しいのでやはり矛盾はない」と認識しなければならない。

 

 

と、作中ではこんな(悪い)使い方をされているが、これはこの作品の中だけの話だろうか。

 

"ダブルシンク"という名前は知らなくても「矛盾した2つの信念を同時に持ち、同時に受け入れている(ように振る舞っている)」人は結構いるのではないだろうか。

 

 

ある言葉を思い出す。

 

「矛盾を抱えて生きるのが大人だ」

 

この言葉にどれだけの真理が含まれているのかいまの俺にはとんとわからないが、誰かの真理の一つであったことは確実だろう。

 

 

 

"ダブルシンク"

少し俺なりの解釈(≒翻訳)をしてみよう。

 

バカとハサミが使いようであるように、翻訳もダブルシンクも要は使いようである。

 

「矛盾をしたものを受け容れられる力」

こうすれば良い方に作用することもあるのではないか。

 

例えば、自分は幸せになってはいけない人間だと思っている。だから自分で自分を罰している(と思っている)。

同時に、だが自分で自分を罰するのは赦しを得るためで(誰からの赦しを望んでいるかはここでは問わない)、それは最終的に幸せを望んでいるからではないか?

 

こんな自己矛盾(と自分では思っている)があるとする。

 

こんな時"ダブルシンク"が出来れば、そんな自分すべてを否定も肯定もせず、状態(あるいは情報)として認識できるのではないか。

なるほど、自分はこんなこと考えながらこんなことも思ってんだな。そういう自分もいるんだな。という具合に。

 

状態(情報)がわかるということはいくらか客観視ができるというもの。

その視点からなら、(最終目票は何にせよ)次にやるべきことが見えてくるだろう。

 

そんな建設的な思考、態度は自分で塞ぎ込んでいるよりいくらか大人と言えるのではなかろうか。

(無論、本当に解決したいと思っていればの話である。こういう手合は大抵現状維持が目的、あるいは手段が目的になっている者が大半である)

 

 

矛盾を抱えながらも、考えに考えて、自分だけの自分にとってより善い教訓を得られたら。

それはもしかしたら誰かが賛同する世の真理の一つになるかも知れない。

 

 

 

 

最後に苦し紛れの言い訳

 

言葉や思考は人を表す。

言葉ひとつで自分が知らない自分の本心を隠したり見つめたり、

自分の可能性を狭めたり拡げたりする。

自分の内の矛盾や他人との衝突なども思考や言葉ひとつで良くも悪くもなる。

 

言葉を正しく使うというのはもちろん大切だと思う。

しかしそれ以前に、言葉に気を付けようという姿勢は、言い換えれば自分の人生や他人を大切にしようという生き方なのではないかと思う。

 

 

それは俺の中で、言葉が正しいかそうでないかより重要なことなのだ。